Country Profile
-
国章と国民祝日
-
歴史
-
政治組織
-
外交政策
-
経済活動
-
アルメニア-アゼルバイジャン紛争
-
アゼルバイジャンの地図
The Embassy
Azerbaijan-Japan Relations
Visa and Travel to Azerbaijan
Consular Issues
Education and Culture
Press and Public Relations
Useful Links
Home
Azerbaycanca
English
Japanese
アゼルバイジャン全般について (H.E. 基金へのリンク) 国連代表部 外務省 アゼルバイジャン大統領
Home > 国の概要 >歴史

アゼルバイジャンの歴史の概要

1. 古代のアゼルバイジャン

学者はアゼルバイジャンを今日、コーカサス山脈の北の斜面からイラン高地に沿ってカピス海に至るまでの地域に住むアゼルバイジャン・トルコ人が居住する地域と考えています。アゼルバイジャンは、この周辺で最も人類が早く居住した地域です。 旧石器時代以降、人類の居住の後が残されています。居住は農業と牧畜業と密接な関係があり、この地域は、紀元前7000年から6000年には広く行われていました。ゴブスタン付近の岩壁画は紀元前13000に描かれたと学者らは推定しています。

. ノルウェーの有名な探険家トール・ヘイエルダールは1979年と1994年にこれらの岩壁画の特別調査を行ったが、彼は、カピス海沿岸が文明の起源であり、そこからカピス海を渡って南北に広がったと信じている。ヘイエルダールは岩壁画の葦の船は、何世紀も後、ノルウェーの洞窟の壁画に残っているバイキングによって描かれたものと非常に似ていることだけではなく、中世に書かれたサガも似ていることも、彼の仮定の根拠としている。ブスタン岩壁画にある太陽の像を上に頂いている船はアゼルバイジャンの初期住民と、非常に似た絵画を残しているメソポタミアのスメロ・アッカディアン文明との間に反論できない関係を証明しています。紀元前6000年の末期から紀元前3000年の初期にかけて、原始都市文明と国家の芽生えを伴った、第一クラス社会の兆候が現われました。この頃、部族の統合が起こり、アラッタ国・グティアン国・ルルビテ国が形成されました。
シュメール人の楔形文字によりますと、歴史上のアゼルバイジャン領土内で興った最初の国家はアラッタ国で紀元前3000年の前半にウルミア湖の南部から南東部の地域で始まりました。大体 紀元前2300年から第二の古代国家、ルルバム国、が古代アゼルバイジャンのウルミア湖の南に興りました。グティアン国は紀元前3000年の後半後期に、ウルミア湖の南西部で形成されました。紀元前2175年、グティアン国はサマー・アカッドを征服し100年間統治しました。古代アゼルバイジャン国家は政治・経済・文化の点でサマー・アカッドとの関係を維持し、広い意味で、メソポタミア文明の一部を形成し、トルコ系子孫の王朝が支配していました。古代の アゼルバイジャン地域に住んでいたツルコフォン人は火を崇拝する、世界で最も古い宗教のひとつ、ゾロアスター教の信者でした。紀元前9世紀から紀元前7世紀にかけて、マナエアン王国がウルミナ湖地域を支配しました。紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけて、シメリアン-シチアン-サカ王国がアゼルバイジャンの南西部で栄えました。紀元前6世紀の中期にマネアン王国が統治しました。

紀元前520年代にこの国の南部を統治していたアトロパテン王国は、ヘレニズム文化を大きく受け、アゼルバイジャン史上大きな役割を果たしました。

コーカサス系アルバニア国家は紀元前4000後期から3000年前期にかけてアラズ川と南の周辺地域を含むアゼルバイジャン北部につくられました。この国家は、アルメニアの絶え間ない攻撃に対してよく持ちこたえていました。 しかし紀元前66年にローマ人により破られました。いろいろな国籍は持つもののアルバニア人のほとんどはトルコ語を話します。キリスト教はアルバニアで313年以来認められています。
アルバニアの領土は 、当時、アーティサクといわれていた、カラバフの山岳地帯を含んでいました。

前コーカサス地域がローマ人の支配にあった、1世紀から4世紀にかけてアルバニアはたった一つ独立国家を保っていた、その独立はアルバニアの学問、言語、文学として開花した。それと同じ時期にアルバニアの東方教会を含む教会全体の自治が強まり、キリスト教がコーカサスの北部、ツルコフォンの人々まで広まりました。

2. 中世のアゼルバイジャン

アラブ人の侵入に続き、宗教の支配によりアゼルバイジャンはイスラム教になりました。ほとんどのアルバニア人はイスラム教に改宗した、しかしながら、以前からの宗教を守った人々も少しはいました。南コーカサスにおいて、ビザンチン帝国の影響を受けながら、アルバニア教会はグルジア教会とともにダイフォサイテ(キリストの神と人間の両性を持つという両性説)をアラビア人の侵入直前に受け入れました。ビザンチンの影響を防ぐために、統治者はアルメニア教会の協力を得るため、カラバクールやアルサクの山岳地帯に住むアゼルバイジャン人のグルジア化を引き金にし、アルバニア教会を単性説に方針を転換し、統治下にあったアルメニア・グルジア教会を単性説に導いた。

アルバニア人とアトロパテネ人がひとつの国家内に一緒に住まわせ、職業や宗教を制限するはアゼルバイジャンの人々の統合を確かなものにしました。自由、独立、普遍的な平等の観念は、ババラックに先導され、ハラマイテ運動を育てました。反統治運動が地域住人から起こり、9世紀にアゼルバイジャン国内でいくつかの新しい国家が出来ました。 最も力のあったのは、シブラン国です。 シェマカに首都があり、メゼディ王朝により統治されていました。これは16世紀まで続き、アゼルバイジャン中世の歴史で重要な位置を占めています。サジズ、サラリズ、レイヤデイズ(首都はそれぞれ、マラガ、アダビル、タブリス)及びシャダヂズ(首都はガンジャ)の独立国家が9世紀から11世紀の間興り、これが現在のアゼルバイジャンの領土になっています。アゼルバイジャンは11世紀末からセルジュク王朝が支配しました。1136-1225の間、アタベク・エルデリス国がアゼルバイジャンを支配していました。

この国の先住民の共通語であるトルコ語、トルコの起源および同じイスラムの信仰を持つことの互いの引力は、11世紀から12世紀に最高点に達し、アゼルバイジャンはひとつの国に結束した 同じ時期にアゼルバイジャン文化は、有名な哲学者、建築家、詩人、学者等を輩出し、大きく花開いた。アゼルバイジャンの社会・文化でこの時期の最高の偉業は詩人、哲学者であるニザミ・ガンジャヴィ(1141-1209)であす。現在では、世界の文化遺産の一つでになっています。

12・13世紀はカラバフの山岳地帯、カチェン公国のアルバニア国王によって統治されいました。ハサン・ジャラル(1215-1262) はアルバニアのルネッサンスを先導しました。そしてガンザサールの修道院コンプレックスの完成を見ました。この大聖堂は初期教会の中心となり、彼の貢献はアルバニアのカトリック教会によりたたえられました。13世紀の半ばから、アゼルバイジャンはモンゴル・Hulagid王朝(1258-1356)の属国となりました。14世紀の半ば、住民の人口が増えるに従い、ジャラリッド領主が、アゼルバイジャンの貴族の支援を受けて、これまでの侵入者の支配・圧迫を追い出し、ジャラリッド国を建国しました(1359-1410)。

14世紀の末、アゼルバイジャンは繰り返しタメルラーン人の侵入を受け、「金の遊牧民」と言われる民族との戦いの戦場と化しました。

アゼルバイジャンのカラ-コユンルとアコ-コユンル王朝はそれぞれ 1410-1468 と1468-1501 の間統治し、その間、アゼルバイジャンは、著しく力を増強しました。1501年、サファヴィド国がアゼルバイジャンに建国されました。この国は後にアゼルバイジャン王朝と名前を変更し、首都をタブリズにおきました。この王朝の元で、アゼルバイジャンの国土は統一され、歴史的に始めてアゼルバイジャンという単一国となりました。サファヴィド国は、アムダイラ川からユーフラテス川まで、また、ダーベンからペルシャ湾に至るまで拡大しました。この政治形態はアゼルバイジャンの基本的なものとしてつくられ、発展してきました、また、全ての政治権力はアゼルバイジャンの貴族階級にありました。上級裁判官、軍将校、知事は全てアゼルバイジャン貴族により指名されていました。陸軍は、アゼルバイジャンで最も強力な氏族(クラン)の民兵から成り立っていました。アゼルバイジャン語はサファヴィド国の公用語でした 16世紀末までに、サファヴィド国の首都はイスファハンに遷都され、シャー(国王)はペルシャ貴族からその支持多くを引き出しました。この国家はアゼルバイジャン王朝の支配下にあった間はますますペルシャの影響を取り入れました。

3.アゼルバイジャンのカナーテの国の独立

ロシアとイランからのアゼルバイジャンの分離
18世紀の半ば、アゼルバイジャン国内におけるペルシャ国王の軍事活動で力が衰えるのに伴い、国土が20のカナーテに分かれました。その名前は、アルダビル、ガンジャ、ダーベント、エリヴァン、ジャヴァド、カラバフ、カラダク、コイ、マク、マラジン、ナクチェワーン、クバ、バクール、サラブ、シルヴァン、シェキ、タブリズ、タリシュ、ウルミである。これらのカナーテのほかに、更に分割されたサルタナテが出来ました。それらの名前は、カザフ-サムシディル、イリス、アラシュ、ガツガシェン、ナゴルノ-カラバフールです。ナゴルノ-カラバフールはアゼルバイジャン・モスレムとアゼルバイジャン・クリスチャンの人々が住んでおり、クラ川からアラキス川の地域であるカラバクールでアゼルバイジャンカナーテの完全な形を形成していました。「メリクドム」と呼ぶディザク、ヴァランダ、カチェン、グリスタンの地方の公国全ては、カラバクールの山間部に位置し、カナーテの形態を持つものの住民は属国としての忠誠を負っていました。

18世紀末から19世紀の30年代まで、アゼルバイジャンは地政学的に、戦略上重要な位置にあるため、ペルシャ、ロシア、オットマン帝国と、れぞれの覇権の保全をめぐり、戦っていました。(fight overの意味を確かめること)いくつかのカナーテが彼らの主権を守るため、他のカナーテは、彼らの利益を守るため、あるいは属国である義務を軽減する契約に結びつけるために武器を持って立ち上がりました。このようにして、1805年5月14日、条約が、アゼルバイジャンのイブラヒム・カリルにより、クラ川の堤で締結されました。この条約で、アゼルバイジャンのカラバクールのカナーテはロシアが支配することになりました。この条約は、カラバクールが歴史的にアゼルバイジャンの一部であるということを示しているため、今日にも著しい影響を与えています。

1804-1813年の第一回ロシア-ペルシャ戦争はアゼルバイジャンのカナーテの支配権の確立のために戦われました。ガリスタンでの平和条約締結は1813年10月12日に、ロシアとペルシャの間で締結され、ナクチェワーンとエリヴァンを除くアゼルバイジャン北部のカナーテ群のロシアへの併合が認められました。1826-1828年の第二回ロシア-ペルシャ戦争では、1828年2月10日にタルカマンチャイ平和条約としてアゼルバイジャン北部を放棄することと、最終的にはロシアのナクチェワーン、アリヴァンを含む北部のロシア統治を承認しました。

カラバクールを含む上記に挙げた全てのカナーテは純粋にアゼルバイジャンの所有地だったにもかかわらず、ロシアに併合されたということは、非常に重要な意味があります。住民はアゼルバイジャン人でした、なぜならば圧倒多数のアゼルバイジャン人と民族的に異なった領主(大地主、聖職者等)の支配者エリートだったからです。

4.アルメニアとの領有権の再度の和解

タルカマンチャイの条約や、1829年エディーヌで締結された平和条約の下で、ペルシャやオットーマン帝国に住んでいたアルメニア人はアゼルバイジャン、主に、ナクチェワーンのカナーテ、エリヴァン、カラバフに移動させられました

このように、ロシアの学者、K.シャヴロフは以下のように記述しています;1828-1830年だけで、おおよそ40,000人のペルシャ人と84,000人のトルコ系アルメニア人がトランス-コーカサスに移動させられました。そこは彼らにとってヤリサヴェトポル(カラバフ)やエリヴァンの地域なかで居住するのに最高の場所であり、それまでアルメニア人の人口は無視できるほどでした。200,000人が225,000ヘクタールの国土に割り当てられました。

ロシアの外交官であり、劇作家でもある、アレキサンダー・グリボドフは彼のノートに「大体ほとんどのアルメニア人が、モハメンダンの地主のところに落ち着きました・・・ これらの新しい住居者は、モハメンダンは締め出されます。私たちは 評議会がモハメダンに、この移住は長期間ではなく、アルメニア人が移住してきたこの土地を永久に所有するのではないかという、以前から住んでいた人々の懸念をなくし、状況の悪化に歯止めをかけるため仲裁をするべきではなかったかと反省する必要があります。

アメリカのアカデミー会員、ジュスティン・マッカシーはアルメニア人による、南コーカサス、特にアゼルバイジャンの和解に関し、次のような事実を挙げている 1828年から1920年の間、アゼルバイジャンの人口統計に関する政策のでアルメニア人はアゼルバイジャン人より数でまさっているとう偽装をするために、200万人を超えるモスレムは強制的に追い出され、数多くが殺されました。1828年と 1854年に2つの事件が起こりました。ロシア人がアナトリア東部に侵入し、両方の事件とも、100,000人のアルメニア人の支持者をコーカサスに連れ去り、トルコ人の居住地区に住まわせました。 すなわち、アゼルバイジャン人は外へ移住するか、死ぬしかなかったわけです。1877-1878年間の戦争のでは、ロシアはカー-アルダハン地区を押さえて、モスレム住民を追い出し、70,000のアルメニア人をその住居に入れました。1895-1896年の紛争の間、60,000人のアルメニア人がロシアンコーカサスに再定住させられました。最終的に、第一次世界大戦の移住者は400,000人ほどの東部アナトリアからのアルメニア人と、400,000人のコーカサスからのモスレムの同数の交換を行いました。

マッカーシーの情報によれば、1828から1920の間560,000人程度のアルメニア人がアゼルバイジャンに再定住したことになります。換言すれば、ロシアのコーカサス南部の征服の後に、アラキス川以北のアゼルバイジャン国土のアルメニア人の人口は急激に増えました。

カラバフに関しては、正式な記録によると、1810以降、即ちロシアによる併合直前はカラバフのカナーテは12,000世帯あり、その内訳は、アゼルバイジャンは9,500、アルメニア人がたった2,500でした。1823年のデータでは、カラバブ・カナーテのひとつの街、シュシャと600の村で450村がアゼルバイジャン、150村がアルメニア人のものでした。全人口は90,000人です。シュシャの世帯数に関連する数字はではそれぞれ、1,048と474、地方では12,902 と4,331です。

1828年3月21日、ロシア皇帝、ニコラスI世による法令により、ナクチェワーンとエリヴァンのカナーテのアゼルバイジャン人は、ロシア官史が指揮する「アルメリアン・オブラスト」と呼ばれる行政上の自主独立体により分解させられ、交換させられました。1849年、アルメリアン・オブラストはエリヴァン・プロヴィンス「グベルニア」と改名しました。

最終的なゴールの追求の中で、アルメニア人はロシアの官憲にこれまでアゼルバイジャンで運営されてきたキリスト教の総主教を廃止し、その資産をアルメニア教会に移行させるように運動を行った。これからくるものは、この国の主権、明らかに他とは異なる独自のアイデンティティ、そして旧アルバニアの西部地域、即ち、カラバフ地域、アルメニア人入植者が更に増え、グルジア化、アルメニア化しようとしている地域のアルバニア人の人口の損出である。

5.19世紀から20世紀初頭のアゼルバイジャン

19世紀の半ばから、アゼルバイジャン北部で石油産業が栄えていました。最初の産業用石油井戸は1848年に掘られました。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ロシアの生産量の95%、世界の生産量の50%を算出しています。ノーベル家とロスチャイルド家は石油王となり莫大な収入を稼ぎ出しました。ノーブル家の財産の大部分はアゼルバイジャンの石油からくるものでした。

19世紀後半から20世紀はじめにかけて、アゼルバイジャン文化の革新的な時期でもありました。1908年、ウゼイル・ハジバヨフ、有名なアゼルバイジャンの作曲家、がモスレム世界で最初のオペラとなる「レイリとマジュナム」を書きまし。一般的に、この国の音楽文化は高度に発達しているため、アゼルバイジャンは「西のコンセルバトワール(音楽、美術、芸術学校)」とか「西のイタリア」と呼ばれています。

この国の社会・文化の結晶は地球の他の地域でも好まれています。19世紀の半ばから、啓蒙運動の概念が広がり、最終的にはアゼルバイジャン南部のタブリズで1858年にアゼルバイジャン人の知識階級の努力により「アゼルバイジャン新聞」が発刊されました。それはアゼルバイジャン語による最初の新聞であり、当初の数年間は異なった名前で出版されていました。

北部アゼルバイジャンでは、1875-1877の間、「アキンチ(農夫・田舎者)」という新聞が 洞察力のあるハサン・ベイ・ザルダビの指導で出版されています。「アキンチ」の主な業績のひとつに、土着の言葉を豊富にし、その使用を拡大することにチャレンジするというものです。

土時期に卓越した作家たちが現われ、この国の文化の更なる発展にはずみをつけた。ミルザ・ファタリ・アクノドフ、ミルザ・アラクバ・サビル、ジャリル・モナドグラザデー、ジャファ・ジャバルリ、フルダン・ベイ・コチャルリ、アヒァマード・ジャヴァド等はここに特筆する価値があります。同じような発展が芸術、建築、劇場、映画撮影術の分野で起こりました。

このような急激な文化-イデオロギー運動は政治の制度化とアゼルバイジャン社会の統合に影響を与えました。ロシアに住んでいるアゼルバイジャン人は人権を含む種々の権利を守るモスレム帝国民主主義運動の先駆者でした。アリマダン・ベイ・トプチュバショフ、卓越したアゼルバイジャンの政治家、は「イティファキ・ムスリム」(モスレムの同盟)の創設者の一人となりました。それはその帝国の当局によってトルコ系モスリムの人々の利益・権利を代表し追及することを目的に、1905年に設立されました。一般的に、アゼルバイジャン人代表は専制独裁ロシアで、この運動に積極的に参加し、抑圧されたモスリムの共通の目的のために戦いました。

20世紀初頭の政治意識の進化を考えるとき、アゼルバイジャン主義を創り、伝統的イスラム主義と、タルキックの価値観をモラルレベルで、現代に適合させるという国家を統合した、アヒァマード・ベイ・アガオグル、アリ・ベイ・フセインザデの実績を強調しすぎることはありません。

19世紀後半から20世紀前半を通して、南部アゼルバイジャンにアゼルバイジャン人の政治意識が高まってました。1905-1911年、アゼルバイジャンの国家的英雄、サター・カーンやバグヒル・カーン  シャーが指導した、専制独裁政治を制限する運動は、ペルシャに最初に政治文化や制度に民主形態を取り入れましたが、その後、ガジャー王朝の支配下になりました。

1905-1911年の間の社会‐政治学の進展の結果は、シーク・キヤバニの指導により1920年のタブリズの運動が確立できたことです。その後、1945年アゼルバイジャン南部での国会や政府の創設は、シャーのイランに住んでいるアゼルバイジャン人の政治意識の著しい高まりを示しています。事実、南アゼルバイジャンは19世紀から20世紀前半にかけてイランにおいて民主主義へのプロセスの中心地となりました。

6.第一回共和制:アゼルバイジャン民主共和国(1918-1920)

1917年、ロシア革命の後、その帝国の弱体化・分解, 崩壊のプロセスはより明確になり、旧ロシア帝国から離れた少数民族の地域で国家を造る諸条件は成熟しました。1918年5月28日、アゼルバイジャン民主共和国は南部コーカサスの東部を領土として宣言しました。これはイスラム国において最初の議会民主主義の出来事です。そしてまた、これはアゼルバイジャンにおける、少数民族のアイデンテティと国家のあり方を決めるという歴史的に重要な役割を果たしています このときのアゼルバイジャンのリーダーの一人が、ママド・アミン・ラスルザデでした。

アゼルバイジャン民主共和国の国民と国家の発展は、近代主義・イスラム教・トルコ主義の原理・原則を基軸にして、アゼルバイジャンの人々の、イスラム文明、トルコ文化、また少数民族独自のアイデンティティを統合する力を維持し進歩させる熱望や願望を象徴化させる、「アゼルバイジャン主義」の概念に基づいています。2年足らずの期間でありましたが、アゼルバイジャン国会は複数政党であり、連立政権は、国家として取るべきいくつかの重要な案件を処理しました。即ち、建国と教育や軍の編成、財政・経済システムの独立と成長、新生共和国にとっての国際社会を構成する各国からの承認といったことです。1920年1月、パリ平和会議、ベルサイユ条約、事実上、アゼルバイジャン共和国の独立が、その首都とともに事実上、承認されました。しかし、1919年終わりからと1920年初めにかけて、アゼルバイジャン共和国の政治状況は内外とも、著しく悪化しました。ロシアとペルシャの協商国間で、地政学的に戦略上重要でかつ石油が豊かな地域が、彼らの目的追及のために、どうもうな主導権争いに巻き込まれたことに、この国は気づいたのでした。

独立宣言

1918年5月28日にタフィリス市においてアゼルバイジャンの独立を国民評議会、 議長代理-ハサン・ベイ・アガエフ、書記-ムスタファ・ハムドフ、ファタリ・カン・キョスキー、カリル・ベイ・カス・ママドフ、ナシブ・ベイ・ウスベヨフ、ミル・ヒダヤト・セイドフ、ナリマン・ベイ・ナリママドベヨフ、ヘイバ・グル・ママドベヨフ、メティ・ベイ・ハジンスキー、アリ・アスカル・ベイ・マヌドベヨフ、アスラン・ベイ・ガルダシェフ、ソルタン・メジド・ガニザデ、アクバ・アガ・シェク・ウル・イスラモフ、メディ・ベイ・ハジババベヨフ、マナド・ユシフ・ジャファロフ、クダダド・ベイ・ミルク・アラノフ、レヒム・ベイ・ヴェキロフ、ハミッド・ベイ・シャタティンスキー、フリダン・ベイ・コチャリンスキー、ジョモ・ベイ・ハジンスキー、シャフィ・ベイ・ルスタベヨフ、ホスロフ・パシャベイ・サルタノフ、ジャファ・アクノドフ、モハマド・マヘラモフ、ジャヴァド・メリク・イェガノフ及びハジ・モラ・アクンド・ザデが採択した。

ロシア大革命の際にロシアでできた政治体制は国家組織やロシア軍のトランスコーカサス地域の放棄等、いろいろな部分で破綻していた。

残されたトランスコーカサスの人々は、これに変わり、トランスコーカサス民主連邦共和国を建国しようと決心しました。しかしながら、グルジア人がトランスコーカサス民主連邦共和国から離れ、グルジア民主共和国を作るという状況の変化が続いて起こりました

ロシアとオットマン帝国の敵対行為の終結により、アゼルバイジャンの政治状況、ことに耐えられないほどの無政府状態は、内外の状況を難しくしてる住民を抑圧から解放するため、アゼルバイジャン国内の分離した国家創設を必要としました。その国家は、東部及び南部のトランスコーカサスの地域でした。

その結果, アゼルバイジャン国民評議会は独立国家として、国家レベルの選挙を発令しました。
I.今後、アゼルバイジャン人民は主権者として、東部・南部トランスコーカサス地域を構成するアゼルバイジャンは独立国家として、国家としての全ての権利を有する。

II.独立国家アゼルバイジャンの政治体制は民主共和制とする。

III.アゼルバイジャン民主共和国は近隣諸国を含む全ての国、ことに友好的な国民と国、との良好な関係の樹立を目的とする。

IV.アゼルバイジャン民主共和国は、領土、及び、国籍、宗教、社会的地位にかかわりなく全ての市民の市民としての権利、政治的権利を保証する。   (itsは何をさすのか?)

V.アゼルバイジャン民主共和国は少数民族のすむべき土地、及び彼らの自由な開発を最大限認める。

VI.第一回の憲法議会の会期中、アゼルバイジャンの政府当局は、国民評議会と国民議会に報告したうえで、地方政府に国家レベルの選挙を行うように委託しました。

アゼルバイジャン民主共和国
1918 - 1920 1918 - 1920 面積:114,000平方Km

7.第2回共和制:アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国(1920-1991)

ロシア社会主義連邦共和国(RSFSR)のボルシェビキ政府による政治判断はアゼルバイジャン民主共和国を認めるというものではありませんでした。1920年春、第11赤軍はアゼルバイジャン国境に兵力を展開しました ダシュナクが指揮するアルメニア軍の侵略がアゼルバイジャンのカラバフとザンジェズールで行われました。平和に暮らしてるアゼルバイジャン国内のアゼルバイジャン人に対し、アルメニア人のテログループややボルシェヴィキによるテロリストが攻撃を加えました。そして、社会的、経済的危機がこの国を強く握ろうとしていました。これらの行為は、アゼルバイジャン民主共和国を弱体化させ、1920年4月27-28日の、第11赤軍の首都占領を容易にさせる目的でした。1920年5月1日、コーカサス前線の参謀から第11赤軍に送られた電報に、RSFSR軍は旧ロシア帝国のものも含め、ペルシャ国境に至るまで、アゼルバイジャンの全領土と財産を占領するように指示を受けていました。これからの70年、ソビエト社会主義共和国連邦 (USSR)が形成されるまで、アゼルバイジャンは国家的地位の発展のために重要なステージにありました。つまり、アゼルバイジャンソビエト社会主義共和国の間、社会的、経済的、文化的に発展しました。同時期に、ソビエトはアゼルバイジャン国内で、USSR国内では行っていない、多くの悪い動向に終止符をうってきました。

経済レベルにおいては、この国はソビエト経済の燃料・原材料・農産物の貯蔵庫となってました。文化レベルでは、アゼルバイジャン文学と文化の源泉であり、この国家の絆であるラテン文字に代わり、キリル文字の使用が課されました。ソビエト体制は、民族のアイデンティティを明言し、彼らの本当の歴史を研究しようとするアゼルバイジャン知識階級のどのような努力も抑圧するので、苦痛以外何物でもありませんでした。ソビエト時代、ザンジェズール、ゴイチャ、ナクチェワーンの一部、とその他の地区はアゼルバイジャンから分けられていて、アルメニアの同胞として隣接していました。結果的に、1920年のアゼルバイジャン民主共和国時代の国土は114,000平方Kmで1920-1921年86,000平方Km減少しました。1923年7月7日、モスクワのヴォリシェヴィキのリーダーの主導により、アルメニア人の人口が圧倒的に多い、いわゆるナゴルノ-カラバフール自治地区は、意図的に切り取られ昔から、アゼルバイジャン人の人口の多いのカラバフに付けられました。その決定は、最初のステップとしてナゴルノ-カラバフールをアゼルバイジャンの他の地域から切り離すという政治運動から始まりました。

8.第三回アゼルバイジャン共和国

198-1990年、アゼルバイジャンで独立の返還のための国家民主運動が力強く起こりました。1989年9月23日、アゼルバイジャンはソビエト共和国の中で最初に、国家主権を独自の意図で採択した国です。その運動は抑圧され続け、1990年1月20日、ミカエル・ゴルバチョフの指導のソビエト指導部の許可をえて、ソビエト軍が急派されました。彼らの報復は異常な残忍性を持ち、何百人もの無実のアゼルバイジャンが死に、負傷しました。緊急事態がこの国に発令され、1991年の中頃まで、効力を維持していました。これら逆行にもかかわらず、愛国的アゼルバイジャンの人々による不屈の独立への闘争は、最高点に達し、1991年8月31日にアゼルバイジャン共和国最高評議会にアゼルバイジャン共和国独立の返還の宣言を採択さました。

アゼルバイジャン共和国独立を樹立する決議の手順、アゼルバイジャン独立の基本となるもの、政治・経済の原理・原則の決定を提示する等は1991年10月18日に完成していました。アゼルバイジャン共和国の決議書は71年を過ぎた今、再び、国際法の独立に関する主人公となっています。

1992年アゼルバイジャンは国際連合、また現在、欧州安全保障協力機構(OSCE)と呼ばれている 欧州安全協力会議(CSCE)の一員となりました。