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アゼルバイジャン全般について (H.E. 基金へのリンク) 国連代表部 外務省 アゼルバイジャン大統領
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紛争の歴史

現代のアゼルバイジャンの国家は、起源をコーカサスアルバニア王国までさかのぼります。この地域は現在、ナゴルノ-カラバフール(カラバフ山間部)は国家の形成時期からその一部であった。アンティック(出典元)によれば、アルバ二アには26の、土着の、コーカサス人とトルコ人を構成する、少数民族の連合国家でした。完全に独立していた東方教会とともにアルバ二アは、52のアルファベットを持った豊かでユニークな文化を持っていました。西暦313年、キリスト教がアルバ二アの国家宗教として承認されました。騒然とした状況になり、その国は長く独立を保つことは出来ませんでした。西暦705年、その王国は完全にアラブ・カリファトに従属させられました。その後、カリファトは、アルバニアとビザンチンの密接な関係を排除するために、アルメニアとビザンチンに対抗して同盟関係を結び、アルバ二ア教会をアルメニア・グルジア教会の支配下に置きました。

中世を通じて、カラバフはその国の一部でした。そこはターキック・モスレム王朝とトルコ語を話す住民で、現在のアゼルバイジャンの領土を形成していました。

18世紀は、トルコ(アゼルバイジャン)王朝のドゥジャヴァンシアに率いられ、カラバフ・カナーテの成立したという記念すべき世紀でした。これはアゼルバイジャンのカナーテが、圧倒的にアゼルバイジャン人の人口が多く、アゼルバイジャンの貴族の伝統で世襲的に支配されていました。

ロシア帝国の支配が、カラクチェー条約がカラバフのカンとロシア帝国との間で締結後(1805) 、カナーテを威圧しました。コーカサス地域を制圧後、ロシア帝国は「分割し支配する」政策を実施しました。これは、言い換えれば、分割し、新しく国をつくり、支配力を強化するという方法です。ペルシャやオットマン帝国から大量のアルメニア人のカラバフへの移住による人口状況の強制的な変化は、このような手段の広範囲な総合的政策の一つでした。ロシア-イラン戦争(1806-1813, 1826-1828) 及びロシア-オットマン戦争(1828-1829)の後、この地域の民族的な構成は大幅に変わりました。1828-1830の間、40.000人以上がペルシャから、84.600以上がオットマン帝国から、アルメニア人がアゼルバイジャンに定住しました。

1828年、ロシア皇帝の命令でアルメニア州が、占領下のアゼルバイジャン・カナーテ(イレヴァンとナクチェワーン)の領土内に形成されました。これはオットマン帝国の裏庭に緩衝地域を作り、トルコ語を話す人々の地域を分断する目的で行われました。1836年のロシア皇帝によるアルバ二ア教会の廃止は、究極的なアゼルバイジャン人のグルジア(アルメニア)化という結果になりました。

1918年

5月28日-アゼルバイジャン共和国(ADR)の独立宣言 同日、アルメニアの独立が宣言されました。

5月29日-ADR政府は首都(ポリティカル・センター)も決まっていなかった、イレヴァン(現在のイェレヴァン、人口の30%はアルメニア人を含め異なった民族であり、70%の主要人口はアゼルバイジャン人であった)の独立宣言を行った、アルメニア共和国政府に譲渡しました。

6月4日-バトゥーム平和条約がオットマン帝国と南コーカサス共和国諸国(アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア)の間で締結 オットマン帝国は南コーカサス共和国諸国を承認した最初の国家でした。アルメニア首相によってサインされたアルメニア側の平和条約によれば、アルメニアの国境はこの国が指定した地域の全てであると定義されています。エリヴァンやエクミアジン地区から成る、人口400.000の住民を含む10.000平方kmの土地です。必然的にカラバフはアゼルバイジャン共和国の一部でした。

6-7月‐同意した平和・友好条項に反し、アルメニア共和国はアゼルバイジャンに対し大規模な侵略を開始しました。ナクチェワーンの街の占領、アゼルバイジャン人の住むザンジェズールの村々やカラバフへの大規模な攻撃は115の村、 7729人のアゼルバイジャン人の殺害という徹底的な破壊をもたらしました。50.000人が故郷から追放されました。

1920

1月11日-アゼルバイジャン共和国の事実上の承認が同盟国最高会議で承認されました。

4月27日-ソビエト・ロシア赤軍によるアゼルバイジャンの占領がおこなわれた。

4月28日-アゼルバイジャン民主共和国は消滅しソビエト支配がアゼルバイジャンで確立されました。

1921年

7月5日-ロシア共産党(ボルシェビキ)中央委員会コーカサス局は、「モスレム(回教徒)及びアルメニア人との間の、不可避の事態から平和維持への前進させ、カラバフ高地と低地の経済的な絆の強化させ、アゼルバイジャンとの継続的な絆をつくり、カラバフ山間部をアゼルバイジャンSSRの管理下に置き、広範囲な自治権を与える」と決定しました。

同時に、カラバフ山間部のアルメニア人に自治権が与えられ、圧倒的にアゼルバイジャン人の多いザンジェズールとカザフ地区(合計9.000 km?) もアルメニア人に与えられました。合計20.000 km?でした。アゼルバイジャン領土がソビエト時代にアルメニアに与えられました。

1923年

アゼルバイジャンSSRの共産党中央実行委員会の布告「カンダンディの行政センターを使ってのカラバフ山間部の自治権の形成」(カンダンディの街の名称は1923年、ボルシェビキの有名な指導者ステパン・シャウミャンにちなんでステパナケルトと改名されました。)しかし、それと同時に、アルメニアの小さな入植地に住んでいた20万人のアゼルバイジャン人は文化的自治権さえも、USSRとアゼルバイジャンSSRの政府により拒否されました。

1948-1953年

アルメニアにいるアゼルバイジャン人は常に抑圧され、その結果、アゼルバイジャン人のアルメニアから大量の国外退去が計画されました。公式資料として、1948-1953年の間、50万人以上のアルメニアからのアゼルバイジャン人がアゼルバイジャンのクールル-アラズ低地地域に再入植しました。

1987年

11月18日-クレムリンの参事官、A.アガンベキャンの、利己主義的な声明、カラバフ山間部とアルメニアSSRとの統一について この声明は、国家憎悪と紛争の助長を促す決定的な役割を果たしました。

11月-12月-アゼルバイジャンSSRのナゴルノ-カラバフール自治区(以下、NKARと表現)のアルメニアSSRへの併合の召集実演がイェレヴァン(アルメニア)にて行われました。

1988年

1月-アルメニアSSR内のアゼルバイジャン住民のアゼルバイジャンへの大量の国外退去 当局の決定により、これらの難民はバキーとサムガイットに定住しました。

2月-最初の紛争の被害者:2人のアゼルバイジャン市民がアスケラン(ナゴルノ-カラバフール)で殺害されました。

2月28-29-大混乱がサムガイットにて発生しました。アルメニア人、アゼルバイジャン人、ロシア人を含めた、32人の色々な民族の人々が殺害されました。その犯罪グループの首謀者はアルメニア人エドアルド・グリゴリヤンで彼自身、5人のアルメニア人を殺害し、6人のアルメニア人女性をレイプしました。

7月18日-USSRの最高ソビエト拡大幹部会はNKARはアゼルバイジャンSSRの不可分の一部であると確認されました。

11月27-29日-アゼルバイジャンのグラルク、スピタグ、ステパナヴァンの都市でアルメニアSSRによるアゼルバイジャン市民に対する大虐殺で、33人が殺害されました。

12月-220,000以上のアゼルバイジャン民族がアルメニアSSRにより、彼らの故郷から強制退去させられました。

1989年

7月29日-アゼルバイジャンからアルメニアにつながっている鉄道が、アルメニアの領土にて列車が攻撃されるため、封鎖されました。アルメニアによるナクチェワーン自治区の隔離が始まりました。

12月1日-アルメニアSSRは、「アルメニアSSSRとNKARの再統一」の決議案を採択しました。従って、基本的な規範と国際法規の原則を侵しており、 アルメニアは公式に近隣国の領土の保全に反した宣言を行いました。

1990年

1月13日-USSRインテリア・オフィスによりバキー警察の武装解除が行われた。これにより、1月13-16日の間、バキーの混乱を鎮圧することは出来ませんでした。

1月20日-ソビエト軍はバキーに侵入し、何百人もの市民を殺戮しました。子供、女性、老人がこの野蛮行為の最初の犠牲者になりました。公式には、150人が殺害され、700人が負傷しました。

1991年

9月2日-アルメニア人はいわゆる「ナゴルノ-カラバフール共和国(NKR)」をアゼルバイジャン共和国のカラバフ山間部に建国しました。15,000人程の不法武装グループがNKRの自衛隊として結成されました。

9月23日-ロシアとカザフスタン大統領による仲裁により、ゼレズノヴォスク(ロシア)にてアゼルバイジャンとアルメニアの大統領が会議を行いました。紛争を平和的に解決する同意に達しました。

10-11月-同意に達したにもかかわらず、アルメニア武装勢力はアゼルバイジャン人の多いNKAR地区のコジャヴァンド、マートゥニ及びハドラットに大量の攻撃を行いました。約30もの村落が占領、破壊され、住民は住居から追い出されました。

11月20日-アルメニア人のテロリストは、コジャヴァンド地区 (NKAR)のガラケンドにおいてロシア、カザフスタンの高官とアゼルバイジャンの上級指導者の乗った「民間ヘリコプター「MI-8」に向けて発砲しました。アルメニア-アゼルバイジャン紛争を平和的に解決しようとした22人の最初の試みはゼレズノヴォスクでおわり、更なる暴力の弾みをつけることになりました。

1992年

1月30-31日-第二回CSCE会議がプラハにて開催されました。アゼルバイジャンとアルメニアはCSCE会議への出席を許されました。

2月25-26日-アルメニアはCSCEに加盟したにもかかわず、この国の軍隊は、旧NKARであるアゼルバイジャンの街、コジャリで住民に対する集団虐殺を行いました。ロシア366連隊の大量の支援(カンダンディに兵力を展開)を受けながら、アルメニア軍は残忍にも613人の人々を殺害し(その内、子供:63人、女性:106人、老人:70人)、この街を破壊しました。487人が負傷(その内、子供:76人)、1275人が人質となり、150人が未だに未確認の状態です。

2月28日-第7回目のOSCE政府高官会議がプラハで開催されました。これは、アゼルバイジャンのナゴルノ-カラバフールの即時停戦の実施をよびかけるものでした。国境内外の不可侵権を尊重すること、国境の変更は平和的手段手段と、一般の承認を得て行い、敵対的プロパガンダを含め、どのような形でさえ領土の主張は行わないというものでした。

2月末-ロシア第366連隊のカンダンディからロシアへの撤退、及び、アルメニア分離主義者への非合法な譲渡(戦車:25台、武装歩兵戦闘車両:87台、武装車両:28台、迫撃砲:45門)の撤去

3月11日-欧州評議会閣僚委員会は、最近の無差別殺人及び、非道行為に関して深い懸念を表明し,アゼルバイジャン共和国ナゴルノ-カラバフール地区での民間住民に対する暴力と攻撃に対して、糾弾しました。

3月24日-第一回CSCE(全欧安保協力会議)追加ヘルシンキ会議が開催されました。CSCEの保護下でナゴルノ-カラバフール紛争を解決するために会議は召集されました。

5月7日-イランの仲裁によりアルメニアとアゼルバイジャンの国家首脳会談が開催されました。会議は、ナゴルノ-カラバフール状況の正常化と紛争の平和的解決に充てられました。両首脳は会議終了後、コミニュケにサインしました。

5月8日-同様に、テヘランにおいて、アルメニアが占領しているNKARのシュシャ地区(人口の91.7 %がアゼルバイジャン人)についてコミニュケにサインがされました。シュシャ地区占領の結果として、20,000人以上のアゼルバイジャン人が故郷から追放されました。

5月17日-ヘルシンキにてCSCEの政府高官会議で紛争の平和的解決が話されている中、アルメニア武装勢力はラチン地区を占拠しました。その結果、63.341人のアゼルバイジャン人が故郷を追われました。

9月19日-アルメニアとアゼルバイジャンの両国防大臣により、ソチ(ロシア)にて、2ヶ月間(後に延長された)の軍事停戦の同意に達しました。

12月9-12日-ソチでの同意は破られ、アルメニアはアゼルバイジャンのザンジラン地区の8つの村を占領しました。

1993年

3月27日―4月3日-ジュネーブにて和平会議が行われている最中に、アルメニアはアゼルバイジャンのカルバジャール地区を占領しました。60.698人のアゼルバイジャン人が永住地から追い出されました。

国連安全保障理事会理事長がカルバジャール占領を糾弾する声明を発表しました。

4月15日-欧州評議会閣僚委員会は、ナゴルノ-カラバフール紛争の拡大に関する宣言を発表しました。閣僚委員会は、ナゴルノ-カラバフール紛争の拡大、特にアゼルバイジャン共和国のケルバジャー地区の戦闘の拡大に大いなる懸念を表明し、国連安全保障理事会理事長は全ての敵対的行為の即時停止とこの地域の平和と安全を脅かす全勢力の撤退を要求しました。

4月25-29日-イスラム諸国会議機構は、最近のアルメニアによるアゼルバイジャンに対する敵対的行為とアゼルバイジャン領土の占領に対して、強い糾弾決議を採択しました。

4月30日-国連安全保障理事会はケルバジャーと近年になって占領したアゼルバイジャンの他の領土からの占領軍の即時撤退要求の決議案(822号議案)を採択しました。

6月11日-北大西洋協力理事会(NACC)は「UN SCの第822決議案を協力に支持し、これは全面的に且つ即時に紛争に関わっている国と当事者が実施しなけらばならない。」という声明を出しました。私たちは、敵対的行為の即時停止とケルバジャーと近年占領されたアゼルバイジャンの他の地域からの全ての占領軍の撤退を要求しました。

7月23日-アルメニアによるアゼルバイジャンのアグダム地区の占領直後、OSCE.ミンスク会議議長M.ラファエリ氏が訪問した。158.000人のアゼルバイジャン市民が彼らの家から強制的に立ち退かされました。

7月24日-CSCE ミンスク会議はアグダム市(アゼルバイジャン)への敵対的行為の継続と占領に関する声明を出しました。

7月29日-国連安全保障理事会は853決議案を採択しました。その内容は、「アグダム地区及び近年占領したアゼルバイジャン共和国の地域からの占領軍の即時、完全、無条件の撤退」を要求したものでした。

8月18日-国連安全保障理事会理事長が、アグダム地区及び近年占領したアゼルバイジャン共和国の地域からの占領軍の即時、完全、無条件の撤退要求の声明を出しました。

8月23-26日-これらの警告内容を無視して、アルメニアはアゼルバイジャンのフィズリ、ジャブライル地区を攻撃と占領を続けました。その結果、209.985 のアゼルバイジャン人が強制的に故郷から追放されました。

8月25-26日-アルメニアはCSCE議長がアルメニア大統領、L・Ter‐Petrosianへの、占領軍のカバドレーやザンジランの進行しないことへの要請を無視しました。

8月31日-アゼルバイジャン軍によるアゼルバイジャンのガバドレー地区の占領が行われました。その結果、31.364 人のアゼルバイジャン市民が彼らの家から追放されました。

10月14日-国連安全保障理事会は第874決議案を採択しました。その内容は、即時に、相互に、CSCE ミンスクグループが調整した日程に従い、近年占領した領土からの軍隊の撤退を含む諸事項の実施を要求するものでした。

10月28日-11月1日-の街とアゼルバイジャンのホラディスとアゼルバイジャンのザンジラン地区の占拠がなされました。34.924 人のアゼルバイジャンの民間人が彼らの家から離れて逃げなければなりませんでした。

11月11日-国連安全保障理事会決議案第884号が採択されました。その内容は、ザンジラン地区、ホラディス市の占領、民間人への攻撃、アゼルバイジャン共和国領土への爆撃を糾弾し、ザンジラン地区、ホラディス、また近年アゼルバイジャン共和国の領土で占領した地域から、占領軍を撤退させる、というものでした。

1994年

1月10-11日-北大西洋協力理事会各国の国家首脳と政府が、「領土の獲得に武力を使用したことを糾弾する。また、領土の保全、独立、アルメニアとアゼルバイジャン及びグルジアの主権を尊重することは、この地域の平和、安定、協力の確立に必要不可欠である・・・」という宣言を採択しました。

4月15日-CISは、CIS参加各国の主権、領土の保全、及び国境の不可侵を尊守することを宣言しました。アルメニアは、CISのなかでこの宣言に参加しなかった唯一の国でした。

5月1日-停戦に関する合意が実施されました。

6月9-10日 北大西洋協力理事会の閣僚会議は、「効果的な停戦の実施と、妥協の精神のある建設的な交渉は、紛争の縮小と、国連安全理事会の決議に従った、軍隊の占領地からの撤退と、難民の自宅への帰還が、恒久的な解決を導く、ステップバイステップの平和へのプロセスに必要な条件である。」との宣言を採択しました。

12月5-6日-CSCE ブタペスト・サミット「ナゴルノ-カラバフール紛争に関連したCSCE の行動強化」に関する決議が採択されました。この書類にしたがって、ミンスク会議の共同代表の機関はが設立された。この目的は、武力紛争の停止に関する合意を得るために迅速な交渉を行うために、紛争投資者自身の重要性は排除したうえで、ミンスク会議を開催するというものである。その結果、ブダベプト・サミットはこの合意プロセスの二つの段階の枠組みを採択した 1) 第一段階-同意文書の実施に従い、武力紛争の結果を排除する、つまり、占領した地域の完全な開放及び国内避難民の自宅への帰還の確保 2) 第二段階-最終的、包括的紛争解決のためのミンスク会議を開催する。ブタベスト・サミットはまた、OSCE が平和維持活動を政治合意した後に行う、という決定を採択しました。

1995年

紛争停止合意の細目の交渉

1996年

12月2-3日-OSCE リスボン・サミット OSCE議長は、アルメニアを除く53の会員に全員に、アルメニアとアゼルバイジャン間の紛争解決のための3つの原則を発表しました。1) アルメニアとアゼルバイジャン共和国と領土の保全;2) ナゴルノ-カラバフの法的地位は、ナゴルノ-カラバフの自決について合意に基づき、アゼルバイジャン国内の最高自治権と同様に定義される 3)この合意の規定を受け入れる全ての当事者により、ナゴルノ-カラバフールとその住民の安全は、その相互の義務も含め、保証される。

1997年

1月-OSCEミンスク会議の3人の共同代表(ロシア、USA、フランス)の組織が発表された。

4月2日-防衛委員会議長、レヴ・ロクリン氏の報告書でロシアがアルメニアに非合法に譲渡した武器・弾薬は数十億米ドルとなると発表しました。その後、ロクリン氏は原因不明の理由により殺されました。

欧州評議会の議員会議は、1975年ヘルシンキでの最終決議及び1990年パリ・チャーターにより、この地域の紛争解決が強調されているトランスコーカサス紛争に関し決議案(1119)を採択しました。

 

i. 国境の不可侵

ii. この地域に関係する全ての人々の、多国籍平和維持部隊による、安全の保証

iii. アブカジアやナゴルノ-カラバフールの、全ての関係当事者と交渉が出来るまでの、自治権の地位拡大

iv. 亡命者、難民の人権を尊重した復帰

 

6月1日-共同代表は紛争解決のための「総括的政策計画」を発表しました。この提案の裏にあるアイデアは、当事者が対立する、占領地域からの軍隊の撤退及びナゴルノ-カラバフールの立場という、2つの核心的問題点について平行して交渉しようとするものです。この案を拒否するアルメニアと異なり、アゼルバイジャンはいくつかの例外はあるものの、この提案を受け入れました。

9月19日-共同代表は「ステップ・バイ・ステップ」合意計画を発表しました。この計画は、二つの段階による紛争の収束を考えていました。第一段階では、旧NKAO(ラチン地区は除く)外の6つの地域からの占領軍の撤退及び、民間住民の帰還及び、紛争地域の主要コミュニケーション・リンクの復元です。第二段階では、ラチン、シュシャを含めたナゴルノ-カラバフールの地位の決定です。

10月10日-アゼルバイジャンとアルメニア大統領による、紛争解決のための「ステップ・バイ・ステップ」計画を支持する、ストラスブール共同声明が発表されました。

L テル-ペトロシアンは彼の論文「戦争と平和」の中で、紛争の段階的な解決の重要性を明記しております。その後、彼は、政治的軍事団体の圧力により、辞職せざるを得ませんでした。首相、R.コチャリアン(アゼルバイジャン、カラバフ山間地の居住者でこの指名があるまで、分離主義者の指導者でした)はこの国の大統領代行となりました。大領領選挙での彼の勝利の直後、アルメニアの紛争解決の状況が難しくなりました。

1997-2002年の間、 OSCE ミンスクグループ全員の会議は開催されませんでした。

1998年

4-5月-アルメニアは公式に、前大統領がどうしたステップ・バイ・ステップの合意の拒絶、を宣言しました。

11月9日-共同代表は、紛争を解決するための新しい計画、「コモン・ステート(共有国家)」を持ち出してきました。アゼルバイジャン側は、交渉の対象として、この提案を拒否しました。なぜならば、国際及び国内法規に照らして、規範と原則に一貫性が無いからです。アゼルバイジャンはOSCE ミンスク・グループの枠組みの中で、前の共同代表のステップ・バイ・ステップ計画の提案を基本として、交渉を再開することを快諾しました。

1999-2002年

アゼルバイジャンとアルメニア大統領の直接会談 最新情報では、両大統領は20回以上も会談しています。しかし、なんら進展はありませんでした。

2002年

3月8日-平和プロセスを進展させる方法を探し求めて、共同代表はアゼルバイジャンとアルメニア大統領に、紛争の交渉を行う特使を指名するように、提案しました。特使たちは、年内には3度、2回はプラハで5月と7月、1回はウィーンで11月に、会いました。

7月12日-EU‐アゼルバイジャン協力委員会の最終ドキュメントの中で、EUは、紛争の平和的解決の基本として、アゼルバイジャンの領土の保全の支持を再確認しました

8月2日-EUは、アゼルバイジャン共和国領土内のナゴルノ-カラバフール地域で、いわゆる「大統領選挙」が行われることを非難しました。

2003年

1月23日-欧州評議会閣僚委員会はシュトラスブルグにおいて、アルメニア-アゼルバイジャン紛争を平和的に解決するために、アゼルバイジャンとアルメニアによって約束された義務の完全な実行に関し、特別会議を開催しました。

1月30日-欧州評議会事務総長は、アルメニア大統領、コチャリアン氏によって作られた「アルメニア人とアゼルバイジャン人の民族不和合性」に対し、遺憾の意を表明しました。「ヨーロッパの歴史の暗黒のページを呼び戻すのは決してよい選挙戦略ではない。」とウォルター・シュウィンマーは、2月19日に予定されているアルメニアの大統領選挙に関して、このように言っていました。

2月19日-3月5日-アルメニア大統領選挙

第一回-第二回はR.コチャリアンが二期目のアルメニア大統領として選出されました。OSCE/ODIHR, CE議員会議の監視員は選挙は深刻な不正が行われたと報告しています。

6月19日-アルメニアの連合政府は次の4年間の行動計画を議会に提出しました。この計画の「国防と安全保障」の項目で、この国は、「昨年同様、政府はナゴルノ-カラバフール紛争は平和的交渉プロセス、国際的な「アルトサク」(ナゴルノ-カラバフール)人の自決の認識、及び「ナゴルノ-カラバフール共和国」人民の安全保障、の三点で解決できると考えている。これでは、「ナゴルノ-カラバフール共和国」はアゼルバイジャンとの従属関係から外される 可能性が高いということです。

この計画の発表後、アルメニア大統領、A.マルカヤ-ンはアルメニア-アゼルバイジャン紛争について、「カラバフはアゼルバイジャンの一部である必要は無く、アルメニアと共有する境界線を持つべきであり、カラバフ・アルメニア人の自決権は世界から認識されるべきである。」と語りました。

8月19日-OSCE議長の個人的代表者が、アゼルバイジャンのトヴズ地方にてアルメニア-アゼルバイジャンの国境を監視が行われているあいだ、アルメニア側から、また、停戦協定を破りました。その結果、監視行為は即時に中止されました。不幸にも、OSCE議長の個人的代表者、アンドゼフ・カスプルゼックはこの事実を、からの情報レポートに記述することを拒否しています。

9月-ロシアの、OSCEミンスク・グループ共同代表、N.グリブコフはY.メルザヤコフと交代しました。彼が、その地域を訪れ、一連の会議をアゼルバイジャン当局者と行っていた9月3-5日のことです。

10月15日-アゼルバイジャンの大統領選挙

イルハム・アリエフが一期目のアゼルバイジャン共和国大統領として選出されました。

12月11日-アゼルバイジャン大統領、I.アリエフ氏とアルメニアの同僚がジュネーブで、第一回会議を行いました。

2004年

4月16日-OSCE ミンスク・グループの関与でアルメニアとアゼルバイジャン外務大臣がプラハにて会議を行いました。

4月28-30日-ワルシャワにてアゼルバイジャン、アルメニア大統領が会議を行いました。

5月12-13日-OSCE ミンスク・グループの関与で、ストラスブルグにてアルメニア、アゼルバイジャンの外務大臣の会議が行われました。

6月21日-OSCE ミンスク・グループの関与でアルメニアとアゼルバイジャン外務大臣がプラハにて会議を行いました。

6月28-29日-アルメニアとアゼルバイジャン外務大臣が、トルコの外務大臣、アブドラ氏の同席の下にイスタンブールにて行われました。

8月3‐12日-指揮幕僚に指導されたアルメニア軍隊の演習が占領されているアゼルバイジャン共和国領土内で行われました。

外務省は国際社会に対し、この演習の事実はまた、アゼルバイジャン共和国と占領している領土に対するアルメニア共和国の攻撃の証拠である、との声明を発表しました。

8月8日-「選挙」から「地方自治体」がアゼルバイジャンの領土内で、アルメニア分離主義体制の当局者により行われました。

アゼルバイジャン外務省は声明で、このような「選挙」は一片の合法性も取り繕うことは出来ない。何故ならば、これらは、国際法、アゼルバイジャン共和国の国内法の規範に照らし合わせて、完全に矛盾している。というのは、侵略、占領が継続され、土着のアゼルバイジャン人が主要人口のナゴルノ-カラバフール地区で3分の2が強制追放する中で行われいるためです。

8月30日-アルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣がOSCE ミンスク・グループの関与でプラハにて会議を行いました。

9月15日-アルメニアとアゼルバイジャンの大統領はアスタナでのCISサミットで会談を行いました。アルメニア大統領、ロバート・コチャリアンは、先に4回開かれた外務大臣会議の結果を理解するために、アゼルバイジャンとアルメニア外務大臣のプラハ会議(2004年10月25日)の延期を要請して来ました。

10月14日-アゼルバイジャンは、第59回国連総会の議題「アゼルバイジャンの領土占領の状況」に追加項目を含めることを要請しました。

10月29日-ジェネラル・コミッティーの勧告に従い、国連総会は、現在の議題「アゼルバイジャンの領土占領の状況」に追加項目を含めることを決定しました。それは、賛成43票、反対1票、棄権99票で決定されました。

11月19日-ベルリンにてアルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣の会談が行われました。

11月23日-議題「アゼルバイジャンの領土占領の状況」の追加項目(#163)は59回国連総会の会期中に討議されました。アゼルバイジャン外務大臣は、追加項目の内容とアゼルバイジャン領土内でのアルメニアの不当な活動に関し演説しました。

12月5日-アルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣がOSCE ミンスク・グループの同席のもとにソフィアにて会議を行いました。

12月6-7日-OSCE閣僚会議 がソフィアにて開催されました。閣僚会議はナゴルノ-カラバフール紛争に関して声明を採択しました。その内容は、2004年のナゴルノ-カラバフール紛争の解決に向けての実績、殊に、アルメニアとアゼルバイジャン大統領のOSCE ミンスク・グループの共同代表の支援のもとに行われた3つの会談に対し称賛する、そして、両国外務大臣の4回にわたる、将来に向けての解決のための全ての要因の秩序だった再検証を通じてつくられた、いわゆる、「プラハ・プロセス」を歓迎する、というものでした。

12月9日-アルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣の会談が、NATO欧州大西洋協調評議会政府の枠組みの中でブリュッセルにて行われました。
2005年

1月11日-アルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣の会議がOSCE ミンスク・グループの共同代表の関与のもとにプラハで行われました。

1月25日-欧州評議会議員会議(PACE) が1416の決定を採択しました。その決議案は、「特定地域の国家からの独立と分離は、住人の同意の下に民主主義を貴重とした合法的且つ平和的に手段によってのみ行うことができ、民族追放や他国の領土の事実上の併合に至る、武力紛争を行使するものであってはならない。」ということを再確認したものでした。その評議会は、アルメニアとアゼルバイジャンに、OSCE ミンスク・プロセスを活用すること、紛争の平和的解決のために、ミンスク・グループを通じて積極的に提案すること、を求めています。デイヴィッド・アトキンソン、ナゴルノ-カラバフール特別平和ラポーター、決定と提案の起草者、BBC特派員の質問の回答者、領土保全の原則と紛争解決のための自決権

1月 30日 - 2月 5日 -OSCE ミンスク・グループ領土占領解決調査委員会が、アゼルバイジャンの占領された地域、アグダム、ジャブライル、フィズリ、ザンジラン、ガバドレー、カルバジャール、ラチンに派遣されました。

2月-OSCE は、アゼルバイジャンの領土内で、アルメニアの不当な行為が行われていないかを詳細に調べるために、調査委員会を急派しました。

3月2日-アゼルバイジャン外務大臣とOSCE ミンスク・グループ共同代表とがプラハで会議を行いました。

OSCE ミンスク・グループ共同代表は調査委員会(FFM)の報告書を公開しました。共同声明の中で、共同代表は、「調査委員会は調査した領土の中で、入植者がいた事実を確認した」と指摘し、また、「アゼルバイジャンの、この占領した地域への、これ以上の入植は行うべきではない」と勧告しました。彼らは、「規則に則り、政治的な合意に向けての交渉を加速させる、とりわけ、この地域での、入植者の問題を解決すること、人口構成の変化を避けること、これらは、将来的に、交渉による合意の努力を更に困難にするであろう。」といっています。アゼルバイジャン外務大臣、エルマル・メメディヤロフは彼の声明の中で、 FFM レポートは客観的であると、言っています。FFM は、アゼルバイジャンの領土で占領されているナゴルノ-カラバフール地区以外の入植者を16,000人と断定しました。「彼らが長くその地域に居れば居るほど、その土地に対する彼らの生活基盤や愛着がより深まることは明白です。この状態の継続的な引き伸ばしは、既成事実となり、この平和プロセスを著しく複雑にしかねません。」と共同代表が声明で発表しています。

4月15日-ロンドンにて「プラハ・プロセス」の継続審議がされました。アゼルバイジャンとアルメニア外務大臣はOSCE ミンスク・グループと個別に会い、紛争解決に向けた更なるステップを協議しました。フランス、ロシア、米国の仲介者は、平和プロセスは、合意に向かっての最初のステップは当事者間の会議の中でその手中にあるという「微妙な段階」に入ったと宣言を出しました。

4月27日-アゼルバイジャン外務大臣とOSCE ミンスク・グループ共同代表がフランクフルトで会議を行いました。

ワルシャワでの欧州評議会のサミットの開催直後でアゼルバイジャン大統領、イルハム・アリエフとアルメニアのロバート・コチャリアンが展望台で、OSCE ミンスク・グループ共同代表、ロシア外務大臣、サージェー・ラヴロフ、フランスのミッシエル・バルニエールと同席中に会いました。アゼルバイジャン外務大臣、エルマル・メメディヤロフはジャーナリストに三時間会議の概要を説明しました。「ある程度の進展は見られたものの、更なる議論が必要である。」と語りました。外務大臣は更に、アゼルバイジャンとアルメニアの外務大臣が、プラハ・プロセスの枠組の中で、今回同意した以外の重要案件について引き続き交渉を行うことに、両大統領とも合意のサインを行った、と付け加えました。その大臣によれば、共同代表はもまた、彼らの活動を続けるということです。「定まった会議の形式は無いが、アゼルバイジャンにとって、その結果は重要である。言いかえれば、アゼルバイジャンの領土の保全は、回復されねばならない。」と大臣は語りました。

6月17日-アルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣はOSCE ミンスク・グループの共同代表の関与の下にパリにて会議を行いました。

6月19日-占領したアゼルバイジャンの領土内で、アルメニア分離主義体制の当局により、「国会」のための「選挙」が行われました。

アゼルバイジャン外務省は声明で、このような「選挙」は一片の合法性も取り繕うことは出来ない。何故ならば、これらは、国際法、アゼルバイジャン共和国の国内法の規範に照らし合わせて、完全に矛盾している。というのは、侵略、占領、民族浄化のもとに行われているからである、と言っています。声明は更に、このようなアルメニア側の行動は、殊に、状況に積極的進展の希望が見えている現在、交渉プロセスの精神に反している。アゼルバイジャンの領土であるナゴルノ-カラバフールにおいて、生活の正常かとアゼルバイジャンとアルメニアコミュニティに平和的共存と協力が生まれない限り、恒久的な達成できない、と言っています。

7月5日-OSCE 議員会議は、アルメニア-アゼルバイジャン紛争レポートに関する会議をワシントンで開くように考えていました。そのレポートは、議員会議のこの紛争のための特別外交使節団、ゴラン・レンマーカーによって作成されました。そのコメントの中で、レンマーカー氏は、「紛争は、まだ、凍結されていない。何人もの人々が毎年、戦線で殺されています。氏は付け加えて、「平和的解決の代替案は無い。紛争当事者双方の、個人的、経済的、社会的損出を終わらせるために、紛争を早急に終わらせる必要がある。」と言明しました。レンマーカー氏は、民主主義と融合が恒久的な平和の基本的な要素である、ヨーロッパの問題解決の経験に基づいて行うように提案しました。そのレポートは基本原則として、民主主義と少数民族の権利の保全とともに、占領の終了、亡命者・難民の帰還することを指摘しています。スウェーデンの外交官は、  アランド諸島を紛争解決の参考に、自治を行うことを提案しています。

7月10-12日-OSCE グループ共同代表(米国大使:スティーブン・マン、ロシア:ユリ・メルザヤコフ、フランス:バーナード・ファッシー)がアゼルバイジャンとアルメニアを訪問しました。アゼルバイジャンでは、ナザミ・バクールマノフ、ナゴルノ-カラバフール占領地区の追放されたアゼルバイジャン人代表を含め、大統領、イルハム・アリエフ、外務大臣、エルマル・メメディヤロフと会談しました。共同代表は、7月12日、記者会見で報道記者に、彼らは大統領外務大臣と、平和条約の基本となる原則について話し合ったと話しました。仲介者は、政治的リーダーシップと人々の願望に大きく依存してると指摘しました。

会議の中で、共同代表は、アゼルバイジャンのイニシアチブで、アグダム-カンダンディ-シュシャ-ラチン-ゴリス-ナクチェワーンの道路網を再開すること、これはアゼルバイジャンからアルメニアへのコミュニケーション・ラインを開くことでもあり、トルコ同様ナクチェワーン飛び地にも開くことでもあると、討議しました。ナザミ・ブカマノフは、アゼルバイジャン領、ナゴルノ-カラバフール地域のアゼルバイジャンとアルメニア社会対話を開始することにつて、積極的な反応を示しました。副外務大臣、アラズ・アジモフはバクールで、共同代表にそれは「効果的で、実り多いものになるだろう。」とコメントしました。しかし、彼は、「交渉は更に難しく、複雑になるだろう」とも言いました。「同意に達するかどうかはわかりません。どの会議においても、アゼルバイジャンは建設的な態度を貫き通しました。アルメニアも、建設的な態度を取らざるを得ませんでした、そうしなければ、全てのチャンスは消えてしまうからです。」とアジモフは語りました。アジモフは、アルメニアは、交渉の議題ではない「新しい要素」を持込むだろうと指摘しました。「今こそ、平和を達成する大きなチャンスであり、反対派はそれを逃すであろう。私は、アルメニアにこのチャンスを活用するように促した。」とアジモフは語っています。「アゼルバイジャンの占領された領土は、返還されるべきである。アルメニアは、(アゼルバイジャン領ナゴルノ-カラバフール地域をアルメニアにつながっているという) 口実をつけてアゼルバイジャン領土に主張してはならない。アルメニアは、ラチン・ルートを通ってこの道路を使用することが出来る。しかし、ラチン市は占領下であり続けることは出来ない。」と語りました。

アグダム-カンダンディ-シュシャ-ラチン-ゴリス-ナクチェワーンの道路の再開は、相互の関係と、占領の復元、人々の相互信頼を回復するのに役立つだろう、とアジモフは語りました。彼はまた、ナゴルノ-カラバフール地区の状況は、その地区のアルメニアとアゼルバイジャンコミュニティの相互の努力でしか、解決できない、と強調しました。「現在、ナゴルノ-カラバフールに住んでいるアルメニア人は外国からの移住者です。」地元のアルメニア人は、アゼルバイジャンの市民であり、アゼルバイジャンは彼ら自身で国籍を決定しなければなりません。この目的は、アゼルバイジャンの住民は、解放された領土に戻らなくてはなりませんし、経済関係、相互信頼も回復しなければなりません。」とアジモフは語りました。

8月12日-アゼルバイジャン共和国中央選挙委員会は、カンダンディ選挙区(No.122)が開かれたことを通知し、カンダンディ、シュシャ、コジャリ、コジャヴェンド、及び、他のアゼルバイジャン領ナゴロモ、カラバフに居住する、アルメニア系のアゼルバイジャン市民に対し、アゼルバイジャン人と一緒に、カンダンディ選挙区(No.122)及び、シュシャ-フズリ-コジャリ-コジャヴェンド選挙区(No. 124)で投票権を行使するように、呼びかけました。

8月24日-アルメニアとアゼルバイジャン外務大臣はモスクワでOSCE ミンスク・グループの関与のもとに会議を行いました。

8月26-27日-アルメニアとアゼルバイジャン大統領が、カザンにてCISサミットの中で会議を行いました。

9月12日-「アゼルバイジャン共和国の領土の占領状態」と言う題名で、第60回国連総会の議題に取り上げられました。同日、欧州評議会議員会議(PACE)がパリでアルメニア-アゼルバイジャン紛争について開催されました。PACEは、2005年1月紛争収束のに関し、双方の取り組みを称える決定を行いました。決定事項は2005年PACEの紛争収束のための決議事項を含んでいます。

9月14日-国際組織、国際危機グループ(ICG) 、世界的に紛争防止のために活動している組織、がアルメニア-アゼルバイジャン紛争の報告書を発行しました。ICG 副会長、アラン・デレトロスはバクールでの記者会見で、アルメニアはアゼルバイジャン領のナゴルノ-カラバフール地域を主張すべきではない、この問題について論争すれば、紛争解決が著しく、延期される」と言いました。「アルメニアは、7つのアゼルバイジャンの占領地区から撤退しなめればならない、難民は家に帰るべきである、双方の信頼関係は回復すべきである、カラバフの地位は確定されるべきである。」デレトロスは、この地位が確定されるまで少なくとも 15-20年の活動が必要だろう、といいました。デレトロスは、他の国際組織と同じように、ナゴルノ-カラバフールはアゼルバイジャンの一部だと考えている、とも言いました。「これは法の問題であり、これについては問題は無い。問題は、ナゴルノ-カラバフールが、事実上アルメニアの手中にあることである。」ICG の南コーカサス・プロジェクト責任者、サビン・フレーザーは、この組織は、ナゴルノ-カラバフールのカンケンディ地区で、アゼルバイジャンの少数派であるアルメニア市民に11月の国会選挙で投票を許したこの選挙区の再開を歓迎すると語りました。

12月5日-アルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣はOSCE ミンスク・グループ共同代表の関与の下で、リュブリャナにてOSCE閣僚会議の枠組みの中で、会議を行いました。

12月5‐6日-第13回OSCE閣僚会議がリュブリャナにて開催されました。OSCE ミンスク・グループ閣僚会議は以下の声明を採択しました。紛争の処理は「2005年、ナゴルノ-カラバフール交渉で、プラハプロセスを通じて、満足のいく進展を果たした。また、ワルシャワとカザンにおいてアルメニアとアゼルバイジャンの両大統領がOSCE ミンスク・グループの共同代表の支援をもとに会議を行ったことは特筆すべきことである。さらに、アルメニアとアゼルバイジャンの大統領が来年、OSCE ミンスク・プロセスの中で紛争を解決するための重要な実績を達成するための窓口を今までどおり開いておくことを奨励した。」

12月16日-OSCE ミンスク・グループ共同代表はアゼルバイジャンを訪問しました。

12月16-20 日-OSCEハイレベル・計画グループ(HLPG)の調査隊がアゼルバイジャンを訪れました。

2006年

1月18-19日 -アルメニアとアゼルバイジャンの外務大臣がOSCE ミンスク・グループ共同代表の関与の下にロンドンで会議を行いました。

1月20-27日 -OSCEハイレベル・計画グループがアゼルバイジャンの占領された地域を調査しました。

2月1日-OSCE ミンスク・グループ共同代表がアゼルバイジャンを訪問しました。

・    アゼルバイジャンの地図